思春期の子育ては信じて手放すこと
中学生の娘は毎日不機嫌そうだ。
ふてぶてしい態度、返事もしない。
でも、いいないいな、と思う。
自分ってなにものなのか、とことん
考え尽くしてほしい。
心身共に発達している姿に
とても嬉しくなる。
一方、まだ動物的な小学校低学年の
息子は見ていて飽きない。
また末子というのは、本当に要領がよい。
そのうえ姉のために用意されていた教育資本の恩恵をこれでもかと享受できる贅沢さよ。
多少面倒でも、本物に触れる。
本物は必ず、面白い。
提示されている枠に捉われることはない。
本当に面白いものは、広告を出さない。
ひっそりと、水面下で味わい尽くされている。
声が大きいもの、目立つものに
惑わされてはいけない。
自分が真に知りたいものは何か。
常に考えている。
私が面白いと思ったものを与え続けてきたが、今や子どもたちは自分が面白いと思ったことを自ら探し、選びとっている。
虫や恐竜から始まった生き物好きは、
化石、地層、宇宙、天体と興味が広がり、
筑波実験植物園
地方の自然史博物館
ミライカン
が、彼を後押ししてくれた。
興味は芋づる式に知識を引きずって連れてくる。算盤やパズルも好きな息子がある日から、がむしゃらにやり始めたことが2つある。
折り紙と将棋だ。
私のまったく知らないところで興味をもち、意欲的に学んでいる。無論、本人は遊んでいるつもりでしかないだろう。自宅にニンテンドースイッチなど流行りのゲームはないが、ねだられたこともない。
親の私が出来ることといえば、対局のできる将棋サロンを探し、超絶技巧の折り紙をつくる学校の文化祭や大学サークルの展示会場に彼を連れて行くことくらいだ。
あとは高価な折り紙の本をこれでもかとねだられ買い与えることになる。
賢さとはなにか。
学びのゴールとはなにか。
子どもの内側から溢れ出る好奇心が枯渇しないよう、親は私財を投じて奔走するのである。
自分のことなど、二の次であるようで、自分のことしか考えていないようでもある。
私はここに、いつも違和感を感じる。
誰のための教育か。なんのための学びか。
娘の本棚にそっと忍ばせたエミールを読んでみる。
いつか子どもが私の手を完全に離れたとき、私は充実した気分でいるだろうか。
船頭が多い大型船を下りて、ゆっくり櫂を漕ぎ出したら、沈んだ客船が遠くに見えた。
そして己もまた一寸先は闇である。