試行錯誤の尊さ

人から教わったことは

身につかない

 

ありものでは

炎は灯らない

 

だから親は

子どもが自ら出会ったように

演出する

 

たくさんの不思議を

飽きるほど撒く

 

筋トレの漢字と計算は

子どもの興味の限界を押し広げる

 

金が続くかぎり、何が出るか

分からない種を撒くだけ

なんか芽が出たら

楽しんで見守る

 

子育てとは

己の哲学を試されているなぁと

しみじみ感じる秋である。

息子の中学受験

娘の中学受験で、だいぶ情報を得たつもりであったが、これはこれは、男子はまるで勝手がちがう。

 

なにしろ男子校というのは、女子校と比べ

圧倒的に数が少ないのだ。

 

通学できる距離を考えて、

入試日程を書き上げて、

文化祭や説明会に足を運ぶ。

 

それがすぐできてしまうくらい

選択肢が少ないのだ。

 

私はその中でとても魅力的な学校を

見つけてしまい、息子にも是非

好きになってほしいと

学校に連れて行った。

 

息子はそのあまりに自由な環境に

中学校ってこんなに楽しいんだ!

と目を輝かせていた。

 

私がその学校を気に入ったのは

環境や校風はもちろんだが

なにより入試問題が素晴らしいのだ。

 

学ぶとは何か、好奇心をなにより

大事にする。対象にとことん向き合う。

合理的ではないかもしれないけれど

楽しい回り道。ぼーっとできる知的環境。

大学進学はその先にあるもの。

 

息子は、自分で決めたことは

とことんやる。

将棋もそろばんも、びっくりする

ほど打ち込んでいる。

 

彼が自分でこの学校で6年間学ぶ、

と決めて目標を達成できる環境を

整えたい。

 

男子校はとにかく、厳しい。

 

思春期の子育ては信じて手放すこと

中学生の娘は毎日不機嫌そうだ。

ふてぶてしい態度、返事もしない。

でも、いいないいな、と思う。

自分ってなにものなのか、とことん

考え尽くしてほしい。

心身共に発達している姿に

とても嬉しくなる。

 

一方、まだ動物的な小学校低学年の

息子は見ていて飽きない。

また末子というのは、本当に要領がよい。

そのうえ姉のために用意されていた教育資本の恩恵をこれでもかと享受できる贅沢さよ。

 

多少面倒でも、本物に触れる。

本物は必ず、面白い。

提示されている枠に捉われることはない。

 

本当に面白いものは、広告を出さない。

ひっそりと、水面下で味わい尽くされている。

 

声が大きいもの、目立つものに

惑わされてはいけない。

 

自分が真に知りたいものは何か。

常に考えている。

 

私が面白いと思ったものを与え続けてきたが、今や子どもたちは自分が面白いと思ったことを自ら探し、選びとっている。

 

虫や恐竜から始まった生き物好きは、

化石、地層、宇宙、天体と興味が広がり、

 国立科学博物館

 筑波実験植物園

 国立天文台

 プラネタリウム

 地方の自然史博物館

 ミライカ

が、彼を後押ししてくれた。

 

 興味は芋づる式に知識を引きずって連れてくる。算盤やパズルも好きな息子がある日から、がむしゃらにやり始めたことが2つある。

 

 折り紙と将棋だ。

 

 私のまったく知らないところで興味をもち、意欲的に学んでいる。無論、本人は遊んでいるつもりでしかないだろう。自宅にニンテンドースイッチなど流行りのゲームはないが、ねだられたこともない。

 

 親の私が出来ることといえば、対局のできる将棋サロンを探し、超絶技巧の折り紙をつくる学校の文化祭や大学サークルの展示会場に彼を連れて行くことくらいだ。

 あとは高価な折り紙の本をこれでもかとねだられ買い与えることになる。

 

 賢さとはなにか。

 学びのゴールとはなにか。

 子どもの内側から溢れ出る好奇心が枯渇しないよう、親は私財を投じて奔走するのである。

 

 自分のことなど、二の次であるようで、自分のことしか考えていないようでもある。

 

 私はここに、いつも違和感を感じる。

 誰のための教育か。なんのための学びか。

 

 娘の本棚にそっと忍ばせたエミールを読んでみる。

 

 いつか子どもが私の手を完全に離れたとき、私は充実した気分でいるだろうか。

 

 船頭が多い大型船を下りて、ゆっくり櫂を漕ぎ出したら、沈んだ客船が遠くに見えた。

 

 そして己もまた一寸先は闇である。

 

 

発達のでこぼこ

子育て中の親の不安を煽る商売は儲かる。

発達障害ビジネスもそうだ。

さも最近の子供に多いかのようにうたい、

子どもの行動の断片だけ切り出し問題化する。

発達障害が治る」なんて帯の本もある。

DNAを操作したのかといいたくなる。

脳機能障害と認めたくないというか

認識のない親は、その理由を外に求める。

これは社会が作り出した差別だ。

異物を見つけ出し均質化を求める社会の。

私は社会の異物であるという自覚は

以前からあった。

歳を重ねるにつれ、その自覚はより強固な

ものになった。

脳機能障害を学ぶことにより

軽度知的能力障害の存在を認識した。

そこから相手方を見る際に、その人の

脳機能障害、愛着形成の有無、

心理的発達段階を考えるようになった。

自分を知り、自分のありのままを受け止め、

周りに助けを借り、周りに感謝することができる。

そういう人間になること

子どもをそういう人に導くこと

私の今の目標はそれだけだ。

感覚を研ぎ澄ます

11歳の娘とアーティゾン美術館に行った。

 

鴻池朋子の個展が素晴らしかった。

生きていることを、生かされていることを

忘れてしまわないように

こわい気持ちと真っ正面から向き合える

強さを持ち続けてほしい。

 

その足で、藝大の美術館も訪れた。

娘にはすでに抽象的な表現を

受容するだけの感性がある。

 

わたしは辛い時、芸術に助けられた。

 

多様性を芸術から教わった。

 

感性を解き放ち、研ぎ澄ますことは

塾に行くより価値があると思っているが

本人にそれは言わないことにする。

 

知ることは感じることの半分も重要でない

私がいつも感じている

 

レイチェル・カーソン

センスオブワンダー

 

みえないものをかんじる

 

じぶんいがいのすべてにも

深い意味を見出すこと

 

すごい、なんでだろう!

 

そう思い続けていきたい。

 

小さな息子をみていると、

 

私はそうやって成長したかったんだ。

 

いや、今からやればいいんだと感じる。

 

幼きものの力はすごい。

遊びの反対は仕事ではない、抑鬱である。

自分のルーティンを考える。

 

5割は仕事

3割は子供のこと

2割は家庭のこと

 

INPUTはTwitterNHKと読書

メールチェックは片手間に

買い物はほぼAmazon

 

興味があるのは教育

 

攻めの投資の自覚はある

コスパは悪くないと思うが

すべては健康が前提

 

そろそろ自分の未来の健康に投資しなくては